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板橋な人
おやまだ

赤塚7丁目にある、小さな寺子屋のような学習塾。
小さな塾ですが、ものすごいベストセラー教材を生み出した、その道の人には大きな支持を得る、とても良い教材を開発・使用している教室なんです。
その教材の開発者であり、塾長である、新村清志先生からお話を伺いました。
ご主人とおかみさん
新村清志さん


Vol.2 先生の語る板橋

--- 先生、出身はどちらなんですか?

岩手です。岩泉というところで、山に囲まれた村でした。
これが、人口、四千だったのかな?
少年時代は多分、三千くらいだったのかな。
今は、また、過疎化して、減っているようです。

--- 東京には、どのようにして、出て来られたのですか?

27才の時に、東京に出てきたのかな?

--- 塾を開設されたのはおいくつの時で?

年齢で言ったら、40才の時ですね。

--- 板橋区に住むきかっけというのは、どういったものだったのでしょうか?

36、7才かな?
長男が 5 才で、それまで、池袋に住んでいたんです。
池袋の一間で暮らしていたのだけれども、 六畳一間では困るようになってきたんです。
板橋区に、新しい家が建つと言うので、赤塚五丁目かな?
当時は、赤塚に新しく家が建つというのは、そこしかありませんでした。

--- 赤塚というのは、田舎だったんですねえ。

いやあ、もうね、泥んこ道路で、舗装もされてないし、 バスは一日に3本か5本くらいしか通らないし。

--- 3本から5本?

はい、辺鄙(へんぴ)な所でした。

--- 鉄道の駅は、あったのですか?

はい、東上線がね。
板橋区って、埼玉に、5キロか10キロのところでしょう?
東京でいったら、辺境の地だよ。 笑

--- 板橋区っていうのは、辺境の地だったんですね・・ 笑

そしてね、赤塚の地に、何十年ぶりに、新しい家が出来たと。
貸家だったのだけれども。
そのような情報があって、よし、是非そこを借りようと。
6畳と4畳かな、2間だけでした。
それでも、ひと間から2間だもの。
大躍進でした。

--- 家の周りは、のどかなもので?

家の周りは、昔からの、古い家々でした。

--- 板橋区というのは、変わりましたか?町並みや雰囲気などは。

うん、それは変わったさ。
それはそれは。
想像を絶するほど変わった。
当時は、車をもっている人が、100軒に1軒ほどしかありませんでした。
あるいは、50軒に1軒かな?
今はどの家にも車があるでしょう?

--- そうですねえ。

時代は変わりましたね。
当時はテレビや冷蔵庫、洗濯機などもない質素なものでした

--- 板橋に来られてから、数十年の出来事ですね。

それから、当時の車というのは、毎日故障でした。エンコ。
それにパンク。
バッテリーがどうとか、パンクがどうとか、とにかく大変でした。
今、そういう事は、一年にひとつもないもの。
これは、変わったね。
もう、進化した。ものすごく進化した。
あらゆるものが。テレビも、マスメディアも。
変わらないものもあります。
教育というのは、さっぱり変わっていません。
教育も、少しは変わらないといけませんね。
今、日本の教育、特に学力の低下が深刻な問題です。
「なんとかこのへんで歯止めをかけたい」」と、 調査・研究に没頭しています。

--- なるほど。それは大変ですね、大いに期待します・・・

私が越して来て、まもなくなっだかな?高島平に東洋一の団地が出来ました。
あのころ、 1 坪が、3万円だったのかなあ。
赤塚や、徳丸、四葉の方達が地主さんでした。
東洋一の団地が出来るなんてね。びっくりしたものでした。
まあ、一番変わったのは、地価の高騰です。

--- 地価ですか。

はい。

--- 先生が来られた時には、安かったのですか?

そのころは、溜池公園(赤塚)で、 あの辺で、坪3千円とか、五千円だったのかな?
その頃は、仕送りもしていて、その当時の土地、1坪分ほど毎月送っていたのかな。
今で言ったら、(1坪は)どのようにしても、100万円とかになってしまうものね。
バブルのピーク時は、300万円だといっていました。

--- ピーク時は300万円ですか!?

ああ、不動産屋さんが、色々と探していました。
「区内で300万円なら、どこでも買うよ」って。
それから、バブルになりました。
それに比べて、かつては、坪3千円、5千円だったんです。
仕送りを両親にしていましたが、今ではそういうセンスも、変わってきているのではないでしょうか?
当時は、仕送りをするというのが、自慢ではなく、普通の事だったのです。
そういう面は、それはそれは変わりました。
これは、角度を変えると、福祉の問題でもあるんです。
福祉というのは、国家の成熟ですから。
ある時、家内に「家を買いましょう」と言われたのですが、ここから駅(下赤塚駅)までの間は、20万円か30万円だったんです。
いつでも買えると思っていたのですが。たかをくくっていたのです。
しかし、それから、3年5年経つうちにどんどん変わり、3万円が5万円、そして10万円と、倍、倍になっていきました。
実際に家を買おうという時には、ぐんぐんと値上がりしたものですから、
誰も手放さず、探しても、売り出しが無いという状況になっていました。笑
想像を絶するような話でしょう?

--- そうですね・・・ 板橋に住む人の人柄というものも、変わったのでしょうか?

それは、板橋に限らず、日本中の人が変わったね。

次回へ続く。。。

[Vol.1]れんしゅうちょう誕生まで
[Vol.2]先生の語る板橋
[Vol.3]先生の考える教育とは?




現在75才。
岩手県の農村に生まれ、若くして複数の会社を持つ事業家でした。

27才の時に、奥さんと上京。
36才の時にいたばしに居を構え、
40才の時に、新村塾を開設。

それまでには、様々な特許、開発の研究などをしていたのですが、塾に来た子どもたちの低学力に驚き、教材開発の道に進みます。

その過程で生まれた学習教材「れんしゅうちょう」は、全国800以上の学習教室で使用され、市販もされる等、非常に高い評価を得ています。



驚異のベストセラー
「れんしゅうちょう」


新村さんが経営されている
新村塾

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